2002年1月ごろの自分~思考の道の両端に~

 31, 2006 10:04

2002年の開始のコラムっぽいのはなんか硬くはじまってるなー。

何があったんだろう。

第一印象のインパクト。

それにとらわれず思考の道の両端を行かずに真中を意識したい。

両方の極論から導かれるかもしれない中道な考え。

広く。広く考えは持ちたいね、っと。

◆◇◆◇以下原文◇◆◇◆

~今日の徒然草~(2002.1.17)

 今年で、もう4年目になります。今日の徒然草。

今年何回更新できるか分かりませんが、

読んでくださる方もいらっしゃるようなので、今年も書き続けると思います。

 ちょうど一ヶ月ぶりの更新です。(このペースでいければ最高なのですが;)

先月に「偏見」というものをコアに書いてみたのですが、

今回は第一印象とか考え方みたいなことを、徒然なるままに書いてみようと思います。


 「自分の考え」って、一体何なんだろうか?

そう思います。「自分らしさ」とか「個性」とか言われますが、これも謎です。

思考を進めていくと、「客観視」の実体がほとんど「主観視」であるように、

「自分の考え」と言いながら、人の言葉や書物を織り込んで構築したものに思えます。

 私の印象で言うなら、「自意志で採用した考え」というものに思えます。

  (上の客観視という言葉はあんまり好きになれません。

   「他人もこう考える・こう見るはず」、と勝手に規定して使ってるように思えて、

   あんまり使いたくない言葉です>私個人は)

 こういう風に言ってしまうと、「自分の考え」というものが揺らいでしまうようですが、

それで良いんじゃないか?と思います。

 むしろ揺らぐのが自然じゃないかな?と。

 この世の全ての事象を知っている人間なんていません。

そうである以上、知識というものが新しく流れ込んでくるのですが、

(人が営みを続ける以上増え続けるものですし)

その新知識というものの捉え方が、とても大事に思えます。

 知識の第一印象というものが、とても大事に思えるのです。

新しい知識というのは、その人に流入した際、

その人を、その色に染め上げてしまうように感じます。

例えば、新種の病原体に、抗体を持たない人間が、なすすべなく感染してしまうように。

良くも悪くも、「新知識」はその人を、染めてしまうんじゃないかな?と。

人類が初めて体験するような事が、その人を染めてしまうのはやむを得ないです。

でも、多くの事象には先人達の書物や言葉があると思います。

そういったものを、「新知識」と全て鵜呑みにしてしまうのは、少し危険に思えます。

 自分でその思いを抱える分にはいいのかもしれません。

でも、仕入れた知識を、唯一の価値観のように他の人に伝えるのは危険に思えます。

 世の中に流れる、たくさんの情報・考え方には、人の数だけ無数に存在しています。

そのたくさんの考え方も、切り分けていくと、それ以上ないように思える、

「極論」というものが存在しているのでは、と私は思います。

その極論を「テーゼ」としたならば、対極にある意見・考え方というものが、ほぼ存在するはずです。

テーゼに対抗するものとして、「アンチテーゼ」と呼ばれますが、

一つのテーゼには、必ず別の事を言う、「アンチテーゼ」が存在するはずです。

 抽象的な言い方になりますが、自分を真ん中においた時、

真っ直ぐ先にのびる道で、それぞれの端が、テーゼとアンチテーゼにたとえる事ができると思います。

ここではテーゼとアンチテーゼを「極論」としていますが、

道が道である以上、両端は交わりません。平行線です。

 極論は極論であるがゆえに、交わらないものです。

 妙な抽象的例えですが、もう少しだけ。

考え方を道筋としたならば、その両端。

そして、その真ん中。

実在する「道」というものは、真ん中は少し盛り上がっているものです。

(雨は真ん中に溜まらず左右に分かれます)

真ん中が盛り上がっているなら、その両端。

両端からは、互いを見通せません。

逆に、真ん中からは、両端を見通す事ができます。

 例え話をやめて、もどりますと、

「極論は交わらず、互いを認め合う事ができない」。そういう風にいえるように思えます。

問題は、自分が仕入れてきた新知識が、極論であった場合。

 一気に視野が狭くなりそうです。

仕入れた知識が極論かどうか、判断するにしても、

「新知識」を判断する判断材料が不足しているので、それは難しいです。

 では、どうすればいいのだろう?

「これは初めての知識」と思えたら、ひたすら情報を仕入れるしかないように思えます。

判断材料を増やすという意味で。

 仕入れを続けていると、最初に仕入れた知識というものの、輪郭がはっきりしてくると思います。

書物から仕入れる知識を例に挙げるなら、

・最初に読んだ本 > 参考文献 > 参考文献が参考にしている本

・最初に読んだ本 > 最初に読んだ本の著者が批判や攻撃をしてい本 > その本の参考文献。。。

上のように、読む幅を広げていけば、おのずとその知識が「深く・広く」なっていくように思えます。

 両極論を対象にして、それぞれの良い点悪い点を挙げているような本も重要です。

 (人が話す「意見」にも同じような例えが当てはまるはずです)

 

 上のような手法を進めていくと、

最初に仕入れた知識というものへの印象が変わってくるんじゃないでしょうか?

大きな変化はないかもしれません。

180度変わってしまうかもしれません。

 変わって良いじゃないですか。

 私は、幸い本の著者やプロのコメンテーターではありません。

自分の採用する考え方を変えやすい立場にあります。

 (いったん、本として形の残るものを発表したりすると、転進を難しくする風潮がありますし。

 日本人は「レッテル張り」や「分類」するのが好きらしいので、政治家とかプロはきついですね。。。)

 調べるのには時間かかりましたが、考え方が変わってしまった経験なんて、山ほどあります。

 新しい知識が入ってくると、方位磁石の針が大きく震えるように、大きく揺らぐように思えます。

でも、たくさん知識を仕入れると、安定してきます。磁石の針が安定するように。


 自分の考えという道を、時に左右にふらふら歩きながら。

 手に持った方位磁石の針の揺れを気にしながら。

 なるべく道の真ん中を歩けると、いいなぁ。 

 と、そんな風に思います。

 

 それでは今年もよろしくお願いします。 

◆◇◆◇ここまで◇◆◇◆

 

にしても、面白くないスタート(´-`).。oO()

何度もいろんな考え方に染まっていいじゃない。ってとこは自分で読んでても、

かわらんなーと思う(笑)

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